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2016.06.20

「インバウンド」の本質が、函館のウニ丼に隠されていたっていう話し

 
「インバウンド」という言葉を聞かない日がないくらい、訪日外国人旅行者に向けたサービスや対応が盛んです。
 
CINRAも、HereNowはじめ、旅や海外とのコミュニケーションは注力しているフィールドです。実際に官公庁や行政、広告代理店などから観光メディアのご依頼をいただくことも増えました。
 
でもなぜか、「インバウンド」という言葉がまとっている空気感のようなものに、なかなか馴染めないでいます。
 
「インバウンド」以外にも、「爆買い」とか「越境EC」とか、そういう(語弊を恐れずに言えば、お金の匂いがする)キーワードに対してちょっと距離を置きたくなってしまいます。いや、ボランティアじゃなくてビジネスですから、忌避すべきものではもちろんないはずなんだけど。なんなんだろう、この違和感。と、ずっと思ってました。
 
ちょっと前の話ですが、今年のゴールデンウィークに、函館に行ってきました。そこで起きたちょっとした出来事で、自分なりに「インバウンド」っていう言葉が持つ核心に触れられた気がしたので、そのことについて書いてみます。
 
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2016年5月2日、函館でウニがうまいと評判のお店『うに むらかみ』にお邪魔しました。値段も手頃で地元のお客さんも多いお店です。
 
隣に座っていらしたのは、家族3世代でいらしていた方々でした。
構成としては、
 
・祖父母(たぶん50代後半)
地元の方。おじさんは地元中小企業経営者
 
・父母(たぶん20代後半)
関東で勤務していて、帰省してきた。旦那さんの地元が函館のよう。
 
・孫
生まれたばかりの赤ちゃん、男の子。

 
という5名様です。
 
 
お互い、生後5,6ヶ月の赤ん坊を連れていたこともあり、あちらのおじさんが気さくに話しかけてきてくれました。「そっちはもう寝返りしたのか」とか、「やっぱり女の子もいいなぁ」とか(こちらは女の子で、あちらは男の子だった)、「20年後に結婚式で再会しちゃったりしてな」とかとか。楽しい時間を過ごしていました。
 
そのうちに、函館の話しになって、
 
おじさん「お兄さん函館はどれくらいいるの?」
 
こちら「今晩一泊して、明日昼には札幌に向かいます」
 
おじさん「あぁ、みんな1泊しかしないんだよなぁ(すごく寂しそう)」
 
こちら「でも、海鮮おいしいし、港町の雰囲気がほんとに素敵ですね、函館」
 
おじさん「だろ!(超うれしそう) ここのウニ、札幌よりうまいから」
 
以降、函館自慢が続きました。
 
土地柄なのか、おじさんの気質なのか、その自慢話がまったく嫌なかんじがしなくて、本当にこの人は地元を愛しているんだなぁということがヒシヒシ伝わってきました。
 
おじさんもだいぶ酔っぱらってきたようで、「じゃ、また20年後に結婚式で会いましょう」ということで、あちらが先に帰られました(なんていい加減な)。
 
 
その後、お店の人がやってきて、
 
「さっきのお客様からです」
 
と、ウニ丼を持ってきてくださいました。
 
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(ご飯前の方、すいません。。。)
 
何も言わず、お礼もさせてくれず、おじさんはウニ丼をおごってくださったのでした。
 
——
 
旅先でこんな経験をしたことがある人は多いんじゃないかと思います。
多いんじゃないかと思いますが、このお礼が言えないもどかしさ!!!
 
20年後にほんとに子供の結婚式で会えないと、お礼は言えません。ウニ丼を頬張りつつ、どうしたもんかと考えました。
 
ちょっとして「あ、おじさんはもうすでにこちらに感謝してくれてたんだな」と気づきました。「ぼくが、函館に来た」っていうことに対してです。あのおじさんは函館代表として(少なくてもそういうつもりで)、ぼくに函館のことを散々自慢して、そして、ここに来てくれたことの感謝という意味で、ウニ丼をおごってくれたんだろうと思いました。
 
そういうわけで、もともとお礼でもらったウニ丼だから、さらにそのお礼をできないことのもどかしさは納めて、さらっと丼ぶりを平らげさせてもらうことにしました。
 
 
だらだら続いてしまったけど、これがインバウンドの本質なんだろうな、と思ったのです。
 
 
山ほどある旅行地の中で、そこを選び、はるばる来てくれた人に対する「感謝」と、自分が住む土地が好きすぎてついつい「自慢」したくなる気持ち。
 
この「感謝と自慢」が、インバウンドの核にあるべきものなんだと思います。
 
 
訪日外国人旅行者一人あたりの消費額をいくら増やせるか、滞在日数をどれだけ延ばせるか。もちろん大事な指標なわけですが、「いかにお金をいっぱい落としてもらうか」からスタートしたサービスでは、誰にも、何も伝わらない。自分が旅行者だとしたら、行く気も失せます。
 
日本を選んでくれた「感謝」と、日本のこれヤバいっしょ!という「自慢」の掛け合わせで、取り組んでいこうと思ったのでした。(20年後、結婚式でおじさんにお礼を言えることを願いつつ)
 
 

2016.05.09

非・インターネット的なものが面白い

 
「最近なんか面白いのあった?」と、いろんな人におすすめを聞くのが趣味です。観光地、レストラン、本、映画、テレビ番組などなど。自分の選択のバリエーションに飽きてくると、「自分では絶対に選ばないものを選びたい」欲求がでてきます。アンテナを揺さぶりたくなる。
 
そんなこんなで知人におすすめを聞いていたところ、興味深い偶然があったのでそのことを書こうと思います。
 
おすすめされたものが同じだったというならありがちですが、そうではなく、複数の人からおすすめされたものの「傾向」が、とてもよく似ていたんです。
 
 
まず、ライターのT氏のおすすめ。ぼくは普段テレビを見ないので、芸能界に関する連載をよく書くT氏に、最近おすすめのテレビ番組を聞いてみました。で、これを勧められました。
 
家、ついて行ってイイですか? | テレビ東京
 
最近、人気でゴールデンに移行したようです。簡単に言うと、終電を逃した人(ほとんどが酔っ払い)にお願いして、家についていき、お宅訪問&その人の半生をインタビューする、という番組です。対象は、いわゆる「フツーの人」。なんでもない人の人生を掘り下げていくと、泣けるストーリー、ほっこりするストーリー、共感するストーリーが湧き出てきます。もちろん、取材した全員をオンエアしているわけじゃないし、いろいろ編集もされているのでしょうが、なんなんでしょう、毎週録画して観てしまいます。
 
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次に、弊社編集者のNに、おすすめの本を聞いたところ、この2冊を勧められました。
 
断片的なものの社会学/岸政彦
danpen
 
 
あなたを選んでくれるもの/ミランダ ジュライ
miranda
 
どちらも、ものすごくざっくり言ってしまえば「フツーの人」に焦点をあてた本です。
 
岸政彦さんは、とても丁寧に、暖かい温度で、その言葉で傷つけられる人がいないように、選び抜かれた美しい言葉を綴る方です。普段生きていると抜け落ちてしまうもの、忘れ去られてしまうものにフォーカスをあてています。
 
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どんな人でもいろいろな「語り」をその内側に持っていて、その平凡さや普通さ、その「何事もなさ」に触れるだけで、胸をかきむしられるような気持ちになる。<中略>普段は他の人々の目からは隠された人生の物語が、聞き取りの現場のなかで姿を現す。<中略>だが、実はこれらの物語は、別に隠されてはいないのではないか、とも思う。それはいつも私たちの目の前にあって、いつでもそれに触れることができる。私たちが目にしながら、気づいていないことはたくさんある。(本書25ページから引用)

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2つめのミランダ・ジュライのこの作品は、アメリカの『ペニーセイバー』という地元のチラシに登場する見知らぬ一般人にミランダが突然電話をし、会いに行って、その人にインタビューをするというドキュメンタリーです。チラシにのせるくらいなので、家にパソコンがないか、インターネットを普段しない人たちばかり。ミランダ・ジュライが、映画の脚本そっちのけで、このインタビューに夢中になります。
 
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わたしは『ペニーセイバー』の売り手たちに「あなたはパソコンを使いますか?」としつこく質問しつづけた。ほとんどの場合答えはノーで、他のことについては山ほど言うことのある売り手たちも、これについては、この不在については、語る言葉を持たなかった。もしかしたらわたしは、自分がいまいる場所ではパソコンは何の意味ももたないのだということを再確認したくて、そしてそのことのすばらしさを自分の中で補強したくて、その問いを発しているのかもしれなかった。もしかしたらわたしは、自分の感覚や想像力のおよぶ範囲が、もう一つの世界、つまりインターネットによって知らず知らず狭められていくのを恐れていたのかもしれない。(本書165ページから引用)

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これらの3作品に共通しているのは、「フツーの人」についての物語(=記憶/記録されえなかった情報)を扱っているということです。Googleで検索しえないもの(=検索ワードとして想起されえないもの)、Facebookでつながっていない見知らぬ無名の人の物語にふれさせてもらえます。(そういう「検索じゃたどり着かない情報との出会いが好きです」的な話しは前にここに書いてました→『日本から回転寿司がなくなったら、ぼくの負けです。』
 
つまり、非・インターネット的なのです。
 
知らない人なのにかけがえなく愛おしく、どこにでもありそうなのにそこにしかなく、個別の物語なのに同時代性がみえてくる、そういう物語たちです。これから、こういう情報・物語はどんどん人気が出るんじゃないかと思います。
 
新たな文化は、自然発生的に、自立して生まれることはほとんどありません。新たな文化は常に、メインカルチャーのカウンターとして生まれる。腐敗した政治がパンクを生んだし、オフィスに縛られるワークスタイルがノマドを生んだし、非効率な業界構造と余剰の資源がAirbnbやUberを生みました。行き過ぎたメインカルチャーに均衡を促すかのように、カウンターカルチャーは生まれます。同じように、インターネットが加速すればするほど、非・インターネット的なカルチャーも生まれるはずで、それについて雄弁に語っているのが、この3作品なのだろうと思います。
 
少しおおげさに言えば、これから10-20年で起きるインターネットやテクノロジーにまつわるダイナミックな社会変化のことを思うと、それに均衡を促せるくらいの新しい文化が、かなり緊急に、強烈に必要なはずで、CINRAはそういう形で社会と関わって、貢献したいなぁと思っています。
 
 

2016.04.03

失敗を恐れると、新しい挑戦はできないのか?

 
「失敗を恐れるな」
「日本は失敗を許さないからダメだ」
というような話しをよく聞きます。
 
失敗を恐れているから日本からは世界に通用するサービスが生まれない。イノベーションが起こらない。たしかにそうなのかもしれません。
 
でもぼくは、新たに何かをはじめる人に、
「失敗を恐れるな」とは言えません。
 
正直なところ、
「失敗はそこそこ恐れててもいいかも」と思っているからです。
 
そもそも「失敗」って何なのでしょうか?
 
どういう状態になると、
「俺は/私は失敗した」ということになるんでしょうか?
 

 
個人的な話なのですが、
少し前に、とても尊敬する経営者の方がいました。
 
「仕事ができる」とはこういう人のことをいうんだろうなぁと思い、創業したての自分にとってはまさにお手本のような人でした。
 
しかし、その人の会社は上場を間近に控え、倒産しました。
 
上場に向けて多額の資金調達や借り入れをしていたこともあり、負債額はかなりのもので、有無も言わさず自己破産でした。
 
帝国データバンクのWEBサイトの倒産情報欄に
その人の名前がでているのを、ボーっと見ていました。
 
いまから10年近く前の話です。
 
 
身辺整理で慌ただしい中、その人はぼくにこう言いました。
 
「経営者でない人生を歩んだほうがよかったのかもなって思ってしまうんだよ」
 
普段弱さを出さない人だっただけに、強烈なインパクトでした。
 
債権者もかなり多くいただろうし、
心ない言動の嵐だったのだろうと思います。
 
人によっては、自ら命を断ってしまうくらいですから、
相当な苦境だったのだろうと思います。
 
でも、創業して間もなかった自分にとっては、
その道で自分が最も尊敬していた人が、
その道を歩んできたこと自体を後悔してしまったことが、
そこそこ受け入れ難かったわけです。
 
なにも後悔しなくたっていいじゃないか。
最後まで立派だったじゃないか。美しく散ったらいい、と。
 
いや、今考えれば仕方ないよな、と思います。
きっと本気でそうは思っていなかっただろうし。
あまりの辛さから、ついポロっと出てしまったんだと思います。
 
ともあれ、そのとき、ぼくにとっての「失敗」が定義されました。
 
それは、
会社が倒産することでもなく、
自己破産することでもなく、
社員が突然離散してしまうことでもなく、
(そのどれも避けたいことですが、それ以上に)
「自分の人生を後悔すること」です。
 
失敗=それまでの日々を後悔して、できることならやり直したいと思うこと
 
うまくいかなかったときに、反省はするけど後悔はしたくない。
後悔しちゃったら、応援してきてくれた人たちに合わす顔がないし、自分の人生にもなんとなく申し訳ない。
 
不本意ながら、なんかマッチョな話しになってきてますが、ともかくそういうわけで、ぼくは失敗(=後悔すること)をそこそこ恐れています。
 

 
だからと言って、ビビって新たな挑戦をしないわけではありません。
むしろこれまで、すぐに新たな事業やサービスを立ち上げてしまうばっかりです。
 
「やっぱりやっておけばよかった」って後悔したくないから新しいことを始めるし、自分の好奇心や会社の可能性にフタをしたくないから挑戦します。失敗したくないから、計画も立てるし、ちゃんとがんばります。
 
「失敗への恐れ」と「新たな挑戦」には、実はあんまり相関関係がないんじゃないか。
 
新たな挑戦は、むしろ失敗から遠ざかるための最も効率的で合理的な手段なんじゃないか。
 
そう思っています。
 
 
少なくてもぼくは、「失敗を恐れるな、Do it!!!」という人よりも、「ビビってていいし、途中で投げ出してもいいけど、後悔だけはするな」と言ってくれる人の方を信用するし、一緒に働く仲間とも、そういう風に仕事をしていきたいと思ってます。
 
新年度、新たな仲間も加わりまして、スタートです。
 
 

2016.01.05

現在から考える「積み上げ型」と、未来から考える「ビジョン型」

2016 増上寺
 
あけましておめでとうございます!
 
地球は相変わらず自転と公転を繰り返して、太陽が昇ったり落ちたりを繰り返しているだけなのに、1日違うだけで、「今年」と「来年」と「昨年」の範囲が変わり、すごく気が引き締まったり、やたらと物思いにふけるというのは、人間の特権だよなあ。とか考えてしまうくらい、年末年始はぼーっと、のんびりしておりました。
 
今年もどうぞ、よろしくお願い致します。
 
*CINRAからの新年のご挨拶として、昨年実施したインタビューを集めた特設サイトをつくりました。ご覧いただけたら嬉しいです!
 
 
Facebookやブログで、たくさんの方々の昨年の統括や今年の抱負を拝見しました。ぼくも年末年始は一旦立ち止まって、これからとこれまでを確認する時間にしています。
 
そういう「今年の抱負」とか「今年の行動計画」みたいなものを考えるとき、2つのアプローチがあるんじゃないかと思っていて、新年らしく(なのか?)今日はそのことについて書いてみようと思います。
 
2つのアプローチというのは、
現在から考えるアプローチと、未来から考えるアプローチです。
 
 
まずは、現在から考えるアプローチ。
 
ある程度会社が継続したり、就職して長かったりすると、現在から「今年すべきこと」を考える方が簡単です。
 
「今回の売り上げはいくらだったから、次回はこれくらいを目指そう」
 
「今これが足りていなくてうまくいかないから、今年はこういう力をつけよう」
 
「ここが成長のボトルネックになっているから、今年はこうしよう」

 
といった具合です。
 
今、この状況にある課題や状況から、この先を考える。「積み上げ型」といってもいいかもしれません。
 
このアプローチは、企業の年数(経営者の場合は会社の年数、社員の人は勤続年数)が長ければ長いほど、現実的で、実利的な計画に落としこまれていくんだと思います。
 
 
もう一つの未来から考えるアプローチは、より根源的な問いをつきつけます。
 
「現在はさておき、本来自分はどうありたいか?」
 
「もしこの会社がなかったとして、自分は今何をはじめるか?」
 
「30年後の社会はどうなっていて、この会社はどういう存在でありたいか?」
 
「死ぬ瞬間に、どんなことを思っていたいか?」

 
などなど、視野が広いぶんワクワクするけど、ちょっと考えるのが面倒くさいときもあるアプローチ。「積み上げ型」に対する呼び名として「ビジョン型」と名付けます。
このアプローチは、未来を自分の力でつくっていくためにも必要不可欠です。
 
 
前者の、現在から考える「積み上げ型」は、今進んでいる道をより強く、より太いものにしてくれます
後者の、未来から考える「ビジョン型」は、今進んでいる道の方向を正してくれます
 
どちらも大事なわけですが、このバランス、結構むずかしいです。
みなさんどうしているんだろうといつも思います。
ややこしくしてるだけで、もっとかんたんなのかな。。。
 
積み上げ型が強く、ビジョン型が弱いアプローチで未来を考えると、これまでの経験則で未来を考えがちです。気づいたら本来自分が望んでいないところにたどり着いてしまうこともあるだろうし、ただ積み上げているだけでは、気づけば時代の変化についていけなくなってしまう可能性もあります。
 
一方、積み上げ型が弱く、ビジョン型が強いと、現在と目指したい未来が噛み合わずに、現実離れした目標を掲げて失敗してしまったり、実際のところただの現実逃避になってしまったりします。こうなると、行動計画を立てたはいいものの、ほとんどが実行されないで終わっていきます。
 
どちらの型に重心があるかは人それぞれです。実際、一つの組織を運営してみると、お互いにどちらかに偏った人たちが集まってきたりもするので、全体としてバランスがとれるということもあるのかもしれません。
 
 
ぼくの場合は、あまり頭の回転も早くないし器用でもないので、双方のアプローチを混ぜて考えることはできないです。なので、年末年始の休みを使って「積み上げ型で考える日」と「ビジョン型で考える日」という具合に時間も場所も分けて考えるようにしています(わりと几帳面です。。)。それを最後にがっちゃんこして、「今年これやろう!」を決めます。
 
 
(最後に飛び火しますが)今年の「ビジョン型で考える日」は、やっぱりAIのことを抜きには未来を考えられませんでした(WIRED日本版もちょうど今回AI特集で面白すぎた)。シンギュラリティは近い。人工知能にはない人間の知性とは何か、仕事がAIに代替されて労働の義務がなくなったら仕事はどういうものになるのかとか、自分や自社はその中でどういう形で人の役に立てるのか、とかとか。想像/妄想は止まりません。史上最高に文理の垣根がなくなって、楽しい世界になっていきそうでワクワクしてます。
 
 
みなさま今年もよろしくお願いします!

2015.12.11

2015年、よかったこと、残念だったこと。(一応バトン #HyperlinkChallenge2015 #孫まで届け )

 
CAREER HACKの田中さんから「ハイパーリンクチャレンジ2015」という名のバトンを受け取りました
 
※「ハイパーリンクチャレンジ2015」とは、2015年に面白かったり心に残った記事を紹介するというバトンのようです(自分が関わったやつとそうでないやつの2つの記事)。
参考:2015年、いちばん印象強くエグられた記事/佐藤慶一 #HyperlinkChallenge2015 #孫まで届け
 
 
ぼくはブロガーでもライターでもないし年末だしなぁと思ったんですが、ちょっと書きたかったこともあったので、乗っからせていただきます。
 
*もはやバトンというより普通のブログなのですが、ご了承ください。
 
 
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2015年のインターネットは、いいことも、残念なこともありました。
 
いいことは、ライターとエディターがエラくなったことです。
 
ライターやエディターという、これまではビジネスで「下流」と呼ばれる側にいた人たちに、次々とスポットライトがあたるようになった様は、他人事としても自社事としても、とてもうれしいことでした。情報の発信者から遠い人が力をもつより、近い人が影響力を持った方がいいに決まっています。
 
単発の広告の爽快さや驚きや楽しさだけじゃなく、メディアのように持続的で我慢強いコミュニケーションがつくる信頼が、ビジネスでも認められるというのはいいなぁと思うのです(オウンドメディアとかコンテンツマーケティングとか、バズワードっぽくなってしまっている感もありますが)。
 
その分、「書く」だけじゃなく「広める」ことも期待されると思うので大変ですが、言葉に関わるプロフェッショナルが社会で影響力を持つということは、本当に素晴らしいことだと思います。
 
 
で、残念なことです。
 
誰かの正義や主張が、簡単に食いつぶされる出来事がネット上で本当に多かったことです。
 
佐野研二郎さんのエンブレムの問題にはじまり、SEALDs、パリのISによるテロ(具体的にはFacebookのプロフィール画像をトリコロールに変えた人たちに向けられた批判とか)などなど。
 
思わず「いや、それはいいじゃん」と言いたくなるような、「何か言った人/表明した人にいちゃもんつける大会」がそこらじゅうで開催されました。いや、もちろんこれまでもあったわけですが、2015年のそれはこれまでとは量がまったく違った。さらに、そういうやりとりがSNSだけにとどまらず、マスメディアにまで届き、全国中を動かした。
 
こういうことが増えると、なんらかの主義や主張を唱えることのリスクが高まり、ハードルも上がります。「なんか言っても損するだけじゃん」ってなる。
 
「イノベーション」という言葉を2015年はたくさん耳にしましたが、何か新しいことが起こるためには、少なからずこれまでの常識にアンチを唱える必要があるわけで、どこからのタイミングで必ず反対勢力が生まれます。そこで大切なのは、周囲からの力強い支援です。支援ができなくても、とりあえず黙ってやらせてみる。
 
そういう「社会の許容力」のようなものが、イノベーションの前提条件として必要だろうと思いますが、状況としては許容どころか、止むことのない、いちゃもん大会です。
 
ってことで、あんまり前向きになっていかない中、勇気と希望をくれた記事を2つご紹介します。
 
 
1つ目の記事(自分が関わった方)
 
今年6月にローンチして、CINRAで開発や運用をお手伝いさせていただいているメディア『HIP』で取材させていただいたTOYOTAの田中さんのインタビューです。
 
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「リスクをとらないことの方がリスクだった」 TOYOTAの「MIRAI」開発責任者が語る、トヨタ式イノベーション。| HIP
 
tanakasan
 
“人間、間違っていること、世の中に害を与えるようなことはしたくないじゃないですか。あとで「あいつがやった車って、全然クリーンじゃなくて害そのものじゃないか」って言われたくないわけです。(中略)ちょっとでも疑問を持ったときには考えたりみんなと議論したりして、自分たちがやろうとしていることは間違っていないんだと確認して、信念を持ち続けることが大事だと思うんです。自己暗示みたいなところもあるかもしれないけど、そういうハッピーストーリーを持ち続けないと、たとえ大きな声でしゃべっても、人に伝わる熱意にはならないと思います。”
 
——
 
たとえどんなに叩いてくる人がいようとも、自己暗示だっていいから、正しいことを曲げずに貫き通す。その正義が、私欲なんかよりもずっと強いモチベーションになるし、周囲の人も動かす強さになる。
 
どんな状況に置かれても人間は正しいことを追求していくものだという希望をいただきました。
 
続いてもう一つの記事です。
 
 
■2つ目の記事(自分が関わらなかった方)
 
パリのテロで奥様を亡くされたフランス人のレリスさんによる、ISに対するメッセージです。
ドミニク・チェンさんが日本語に訳してくださった記事です。
 
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“あなたたちは私の憎しみを得ることはできない” — Japanese Official — Medium|Dominick Chen
 
“だから、私はあなたたちに憎しみという贈り物をしない。もっともあなたたちはそのことを望んだのだろうが、憎しみに対して怒りで応えることは、今のあなたたちを作り上げた無知に屈することを意味する。あなたたちは私が恐怖におののき、同じ街に住む人々に疑いの目を向け、安全のために自由を差し出すことを望んでいるのだろう。あなたたちの負けだ。何度やっても同じだ。”
 
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人生最愛の人が殺された人がこんな理性を持てるのかと、人間として限界超えちゃっていないかと、いちゃもん大会開いてる場合じゃないぞと本当に素晴らしくて、最近涙腺の弱いぼくはもうダメでした。
 
自らの正義(ISは悪である)を実証する方法は、他の正義(ISのテロは正義である)をつぶすことだと思ってしまいがちです。でも実はそれは、憎しみの連鎖を生むことにしかならない。
 
本当の正義の実証の仕方は、どんなことをされても、自分たちの正義を信じながら他の正義を無視し続けることだと教えてもらいました。きっとこれは、なんとかしてこの世紀に人間が獲得しないといけない理性なんじゃないかと思います。
 
この態度は、戦争やテロだけの話しでなく、ネット上での論争においても、少なからずつながるところがあるんじゃないかと思えます。
 
 
 
そういうわけで、2015年はインターネットがすごい動いた年だったと思います。
 
それでも、テクノロジーには常に善悪はなく、そのどちらかを決めるのはいつでも人間の側ですから、2016年はハッピーなことがたくさん起こってほしいし、起こしていけたらよいと思ってます。
 
 
■次のバトンなんですが、、、
 
長くなりましたが、バトンなので別の方に。
 
12/20までらしいのでむずかしいと思いますが、今すぐに思いついてしまったのは。。。。すいません。。。。「北欧暮らしの道具店」をやっていらっしゃるクラシコムの代表、青木さん(@kohei_a)です! (遠慮なくスルーしてくださいw)